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五島・長崎 教会巡り(7)長崎 Part 1 [五島・長崎 教会巡り]

【大浦天主堂】
 長崎地方にある教会群のシンボル的存在がこの大浦天主堂でしょう。現存する日本最古の教会建築として国宝に指定されているほか、ユネスコの世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」にも指定されています。1864年12月に竣工され、翌1865年2月に献堂式が行われました。設計はフランス人宣教師のフューレ神父とプティジャン神父によるもので、施工は天草の大工であった小山英之進によるものです。創建当時は単層屋根に3つの塔を持つ木造建築でしたが、1875年から1879年にかけて大規模な増改築が行われ、フロアを四方に拡張するとともに外壁をレンガ造りとし、重層屋根に主塔のみを残したゴシック様式の教会に生まれ変わりました。1945年に長崎への原爆投下により一部破損しましたが、1952年に修理が完了し、翌1953年には1933年に次いで2回目の国宝指定を受けました。
 大浦天主堂が創建された1864年当時は日本人のキリスト教信仰は厳しく禁止されていましたが、長崎に住むフランス人のためという名目でこの教会が建てられました。美しい外観を持つこの天主堂は「フランス寺」と呼ばれて多くの見物客が押し寄せたということです。大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、後述する長崎で処刑された26名の殉教者に捧げられた教会でもあります。これは創建直前の1862年にローマ教皇ピオ9世により、殉教した26名へ聖人の尊称が献上されたことと深く関係しています。そのため、この天主堂の正面は殉教地である長崎駅近くの西坂の丘に向けて建てられています。
 1865年3月に多くの見物客に紛れて浦上地区の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂にやって来ました。そしてプティジャン神父に自分たちがキリシタンであることを告白します。それに続き、外海地区、五島地区など各地から潜伏キリシタンたちが大浦天主堂に訪れました。禁教下の250年もの間信仰を守り続けて来た潜伏キリシタンを「東洋の奇跡」としてプティジャン神父たちがローマへ報告してしまったことから幕府に潜伏キリシタンの存在が明らかになることとなり、「浦上崩れ」「五島崩れ」と呼ばれる激しい弾圧・迫害へとつながって行く皮肉な結果となりました。
 天主堂の手前右側に大きなレンガ造りの建物がありますが、これは旧長崎大司教館で1915年(大正4年)にド・ロ神父の設計、鉄川与助の施工により建てられました。残念ながら教会建築の名手と呼ばれたド・ロ神父はこの建物の建築中に足場から転落して亡くなってしまい、最後の作品となってしまいました。

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天主堂手前右側のレンガ造りの建物が鉄川与助施工の旧長崎大司教館

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大浦天主堂の主ねこさん


【日本二十六聖人記念碑】
 1596年12月、豊臣秀吉の命に従った石田三成により、大阪や京都に住むキリシタン24名が捕らえられ京都で市中引き回しにされた後に1か月ほどかけて長崎まで連れて来られました。道中でキリシタンの世話役として付き添っていたフランシスコ会およびイエズス会の会員2名も加えられ、子供3名を含む日本人20名と外国人6名が現在の長崎駅近くの西坂の丘に磔(はりつけ)にされ、1597年2月に両脇を槍で刺されて処刑されました。関西の人々が長崎で処刑されたのは、キリシタンが多い長崎で見せしめにするためだったと言うことです。また西坂の丘で最期を迎えたのは、捕らえられた26人が、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているこの地を希望したからだと言われています。上述したように1862年にローマ教皇ピオ9世によってこの26名は聖人の列に加えられました。
 1962年(昭和37年)列聖100年を記念して西坂の丘に今井兼次設計の「日本二十六聖人記念館」と、舟越保武による「日本二十六聖人記念碑・昇天のいのり」が建てられました。
 浦上街道を挟んだ向かい側には二十六聖人の一人であるメキシコ人修道士のフィリッポ・デ・ヘススに捧げられた聖フィリッポ西坂教会が建っています。これも今井兼次の設計により「日本二十六聖人記念館」と共に建てられており、ガウディ建築に影響を受けた双塔が異彩を放っています。

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聖フィリッポ西坂教会

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【コルベ神父のルルド】
 本河内(ほんごうち)ルルドはコルベ神父のルルドとも呼ばれ、バチカンから公式に「奇跡の泉」に認定されています。ルルドとは南フランスのスペインとの国境に近いピレネーの山麓にある町の名前です。1858年にそこに住む羊飼いの少女の目の前に聖母マリアが現れ、お告げ通りに洞窟の地面を掘ると清水が湧き出しました。その水で難病が治る奇跡が66回起きたことから、その泉は聖地とされてきました。これにあやかり、本場ルルドの泉を模した宗教施設を一般にルルドと呼ぶようになりました。
 1930年に来日したポーランド出身のコルベ神父は長崎市街の彦山に聖母の騎士修道院を創設しました。そして修道院から200メートルほど登った斜面に泉を発見し、1932年5月にルルドを開きました。これがコルベ神父のルルドです。その後1936年にコルベ神父はポーランドに帰国しますが、第二次世界大戦中の1941年に、カトリックの教えはナチスの思想に反するとしてアウシュビッツ強制収容所に送られてしまいます。その年の7月に脱走者の連帯責任と称して無差別に選ばれた10人の収容者が餓死刑に処されることになりました。それを知ったコルベ神父は10人のうちの1人の妻子ある処刑者に代わって自分が処刑を受けると申し出ます。そして1941年8月14日にコルベ神父は身代わりとして47歳の若さで永遠の眠りに就きました。1982年10月に同じポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世により「愛の殉教者」として聖人の位を受けています。

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コルベ神父のルルドがある彦山の斜面から長崎市内を望む

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クルマの室内修繕 [BMW 325i Touring]

 BMWの3シリーズ(E90系)で多発しているインテリアのトラブルに、ドリンクホルダーの故障とプロテイン塗料の剥がれ・べたつきが挙げられます。ウチのクルマも例外ではなく両方の症状が出ていましたので修繕することにしました。
 ドリンクホルダーは格納式になっており、ワンプッシュするとニュルっと出て来るようになっています。これが格納されたまま出て来なくなるのが定番の故障です。下の写真は修繕後の正常な状態ですが、円弧状に出て来るこの運転席側が決まって壊れることになっています。何はともあれドリンクホルダーユニットを外して中を見てみましょう。

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修繕後の正常な状態。円弧状に出て来るこの運転席側のドリンクホルダーが決まって壊れることになっている。

 まず表面のパネルを剥がします。これはブッシュで嵌っているだけなので端部から引っ張って行けば簡単に取ることができます。パネルが剥がれたら2本のタッピングねじを外してドリンクホルダーユニットを引っ張り出します。

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2本のねじを外せばドリンクホルダーユニットを取り出すことができる

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取り出したドリンクホルダーユニット

 ドリンクホルダーユニットを分解するには、最初に円弧に沿った両側にある合計6個の爪(上の写真の黄色の丸印。反対側にも3つある。)を外して下カバーを開けます。すると内部が見えて故障の原因がわかりました。他の方々の事例と同じく、トレーを飛び出させる動力源であるゼンマイの取り付け部が折れていました。これを修理するにはトレーを引き抜かなければなりません。そのためにはニュルっと出て来るようにしている減速ダンパーのギアを取り外します。精密ドライバーの先などを使って2か所の爪を解除しながら垂直に引き抜くと取れます。このギアを外さないと次のトレーも外せません。そしてトレーをスライドさせて取り外すのですが、上の写真の白丸で示した2か所のストッパが働いてしまうので素直には出てきません。これで小一時間悩んでしまいました。結局トレーと上カバーの隙間にドライバーを差し込み、こじって隙間を拡げながらストッパを解除してトレーを引き抜きました。かなり無理矢理な方法ですが、他に方法が思いつきません。おそらく修理することを前提には作られていないものと思われます。
 ドリンクホルダーのトレーをワンプッシュすると自動的にニュルっと出て来る仕組みは次のようになっています。まずトレーを格納するときに手で押す力でゼンマイを伸ばしておいてロックします。トレーをワンプッシュするとロックが解除され、ゼンマイが縮んで丸まろうとする力でトレーを引き出すようになっています。下の写真が動力源のゼンマイです。このリールがトレーの一番奥に取り付けられていて、ゼンマイの先端は上カバーの一番手前に固定されているのが正常な状態です。ところが分解してみると、ゼンマイの先端を固定していた部分(プラスチック製の上カバーの一部)が折れてゼンマイが外れていました。運転席側のトレーは円弧状に出て来るためゼンマイが伸ばされる距離が長く、助手席側のゼンマイよりも強い力がかかります。それにもかかわらず助手席側と同じゼンマイを使い、同じ固定方法を採っていることが運転席側のみが壊れる原因だと考えられます。つまり、固定部強度の設計ミスです。

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トレーを自動的に引き出す動力源のゼンマイ。この先端の受け側が破損していた。

 これを簡単に修理する方法をミッチョさんという方がみんカラで紹介されていましたので、それを参考にさせていただくことにしました。どこにでもある材料で誰にでも簡単に直すことができるこのアイディアは本当に素晴らしいと思います。下の写真のようにゼムクリップを加工してPの字型のリングを作るだけで済むのです。

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これをゼンマイの取付部に引っ掛けて、リングの旗竿の部分は下カバーの爪で押さえるようにして固定します。

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これで修理完了です。念のため旗竿の部分が外れないように上から粘着テープを貼っておきました。トレーの滑りが悪くなっていましたのでレールにはシリコーンオイルをスプレーしました。後は元通りに組み立てて終了です。

 次にプロテイン塗料の補修です。センターコンソールの後端部にある後部座席用の灰皿付近の塗装が激しく剥げていたので、そこを修繕することにしました。ここは後席に乗り降りする際に靴が当たって傷んでしまうようです。この場所の他にも、上記のドリンクホルダーやドアハンドルなどにこの塗料が使われていますが、大なり小なりどこも傷んでいます。爪が当たっただけでも跡が付いてしまう上に、経年劣化で段々べたついて来ます。ドイツ車には好んで使われている塗料のようですが、こんなに耐久性のない材料は選定ミスとしか思えません。

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プロテイン塗料が剥げてボロボロになった後席用アッシュトレー

 全部剥がして塗装し直すのが良いのでしょうが、かなりの手間がかかってしまうので、今回は簡易的な応急処置を施しました。使用したのはエタノールとメラミンスポンジです。エタノールをメラミンスポンジに染み込ませてプロテイン塗料の表面を擦ると塗料が溶けて滑らかになります。塗料を剥がしてしまうのではなく、平に均して行く要領で擦ると、再塗装したようになります。エタノールが充分に揮発した後にべたつきを抑える目的でシリコーンオイルを薄く塗っておきます。これで随分きれいになりました。

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塗装の補修に使用したのはエタノールとメラミンスポンジ

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再塗装したように滑らかな表面が復活した

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足柄峠 [ZZ-R1100]

 足柄峠(759m)は箱根外輪山の北側に伸びた尾根上にある峠で、かつては東海道の要衝として関所や城が置かれました。この尾根が駿河国と相模国の国境であったため、現在も静岡県と神奈川県の県境になっています。この辺りは金太郎の生地とされ、いくつもの金太郎伝説が存在します。金太郎が熊と相撲をとったという足柄山は、この足柄峠から箱根外輪山で最も高い金時山(1212m)辺りまでの山地一帯を指します。足柄峠は古くは足柄坂と呼ばれ、万葉集にも詠われています。「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹は清に見もかも」(足柄坂に立って袖を振ったら家にいる妻からもはっきりと見えるでしょうか)という歌がそれで、現在の埼玉県に住んでいた藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)が防人(さきもり)に任じられ、任地に赴く時に埼玉の妻を想って詠んだ歌と言われています。
 足柄峠から富士山までは視界を遮るものが何もないため、富士山が良く見える名所としても知られています。峠の静岡県側に「誓いの丘」という展望ポイントがあり、そこから見る晴れた日の富士山はとてもきれいです。誓いの丘には富士測候所勤務の後に作家となり、富士山を題材にした作品を多く残した新田次郎の文学碑が建てられています。

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晴れた日には富士山がきれいに見える誓いの丘

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残念ながらこの日の富士山は雲の中

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新田次郎の文学碑

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足柄関所跡付近にて。バリアスコート施工後4週間経過も艶は健在。

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